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ビッグクランチ

小林先生64歳、益川先生68歳、南部先生87歳…。

ここは説教めいた格言っぽい言葉で始めたのだが、昨年の後半からだらだらと弱音を吐く場所と化してしまった。この変化は、40代半ばを過ぎて突然私の中に生じた内的な変化と呼応している。

少し前に須原一秀の「自死」について拒否的な文章を書いたが、あれは単に自分が「自死」という概念を受け入れることが恐ろしかっただけなのだろうと思う。私は未だに須原氏の言う切腹にみる武士の精神や三島的な自殺の美しさには心惹かれない。ただ、今は、須原氏のように、「65歳」でいったん自死を考慮してもいいかなとは思っている。

三浦和義氏が自殺した理由はよく分からないが、これで三浦和義という<私>が消失したのだなあという不思議な感覚を経験した。<私>というのは、一般的な自我、置き換え可能な自我のことではなく、<私>という特別な<私>、永井均的な<私>である。普通このような<私>は文字通り私自身においてしか感じ得ないものだが、何となく他人のそれを実感したような気になったのである。そして「ロス事件」という事実を含んだ<世界>が消失した。客観的には、裁判費用の問題や、環境の変化が引き金になったなどと推論されるのだろうけど、61歳の彼には残りの人生を再び長い戦いに費やす気力が無かったのだろうと思う。

環境の変化といえば、この10月から私の環境も一変した。だから漠然と、気をつけなければ、と思っている。なぜかと言うと、40代半ばを過ぎて突然私の中に生じた内的な変化とは、ひとつ例をあげれば明日死んでも構わないという感覚だからである。私にはもはや、何かのために生きるという、その生きる理由の核のようなものが無い。というか、そもそもそんなものは無いのだということを了解したのかもしれない。だからといって、積極的に死ぬ理由も見当たらないので、だらだらと生き続けることにしたのだ。

以前の私なら、このような消極的な人生は許せなかっただろう。ところが今は、私がただ息をするためだけに生まれてきたのだとしても、それが清清しい事のようにさえ思える。

緒形拳は70歳で亡くなったが、生前、70歳80歳は表現することに最適な年齢だと言ってたのが印象に残った。演ずることが演じないことに通ずるようになる、なんかそのようなことを言っていたように記憶している。70歳まで生きると、そんな悟りのようなものが得られるのだとしたら、70歳になることに少し楽しみを見出せるような気がする。

良いこと悪いこと、美しいこと醜いこと、生きること死ぬこと、<私>の中で対立するように分かれていたものがまたひとつとなって無になり<私>が終わる。粒子と反粒子、物質と反物質、宇宙がビッグクランチを迎えるのだとしたら<私>もまたそのように。