SuemeSublog

Don't Feed Wild Animals !

私が殺した

「ぎゃあ、スズメバチだ」という叫び声に驚いて私は自分の部屋を飛び出した。
仕事を終えて帰ろうとしていた技師が玄関の前で腰を抜かしている。
彼は(そう、彼は男性だ)玄関のほうをゆび指して「これじゃ帰れませんよ……」と情けない声を出している。
見るとたしかに一匹のハチが玄関の内側に侵入しており、ぶんぶんいいながらガラスのドアに向かって羽ばたいていた。
私は咄嗟に右手に持っていた殺虫剤スプレーをハチに向けて噴霧した。
偶然にも、私はついさっき、自分の部屋にいた蚊をその殺虫剤スプレーで仕留めたばかりだったのだ。
やがてハチはぽとりと床に落ち、しばらく羽音をたてながらもがいていたが、やがて完全に動かなくなった。
技師は「助かりました」と言ってさっさと帰ってしまった。
私はしゃがんでその死体をよく見た。
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スズメバチなんかじゃなかった。
これはもう誰がどうみてもオオフタオビドロバチである。
もちろん、オオフタオビドロバチはかなり動き回っていたから、小型のスズメバチ類に見えないこともない。間違えても無理はないのだ。いや、無理はないだろうか。違う。私はほんとうは分かっていたのだ、これがスズメバチではないことを。それにもかかわらず、殺虫剤スプレーを持っていた私の腕は勝手に動いて、ついつい噴霧してしまった。私はそれを止められなかったのである。今から考えれば、ただドアを開けて逃がしてやればよかっただけの話ではないのか。
私はだんだんと、後悔の念に苛まれていった。取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。
しかし、こうして後悔しているのは、殺してしまったのがオオフタオビドロバチだったからなのだろうか。もしもこれが本当にスズメバチだったら、私は責められることはないのだろうか。いや、オオフタオビドロバチだからだめで、スズメバチは危険だからよい、なんていう話は筋が通らない。だいたい、もしも玄関で暴れていたのが、スズメバチより危険なヒグマであったらどうだったろう。そして私がたまたま猟銃を持っていて撃ち殺したとしたら。そんな顛末をもしもブログに書いたとしたら、なんて残酷なことを、唐辛子スプレーで十分ではなかったか、懲りて二度と現れなくなっただろうに、あるいは麻酔銃で仕留めて山にかえすべきだった、なにも殺すことはないだろう、などと辛辣なブコメやツイートが並んで炎上し、最終的には過激な動物愛護団体に囲まれて夜中じゅう騒音を鳴らされたり、嫌がらせの電話が鳴り止まなかったりするはめに陥ったに違いない。
そのうえ、私は今、オオフタオビドロバチもスズメバチも同じハチ目なのに、一瞬とはいえスズメバチを差別してしまった。私の中には、こんなにも恐ろしい差別感情が内在していたのだ。そのことに気づかされた私は今愕然としている。いったいこんな私に、人種差別の撤廃と世界平和のために活動していく資格があるのだろうか。
いや、そこで私は自分が犯してしまったもっと大きな罪に気づいた。私はオオフタオビドロバチを殺す前に、自分の部屋で蚊を殺していたではないか! ハチよりももっと小さくてか弱い蚊を殺したのである。ジカ熱が怖かったから、デング熱が怖かったから、などという言い訳が通ると思ったら大間違いである。それらは今けっこうマスコミなどで話題になるのでなんとなく聞こえはいいかもしれないが、もし私が、マラリアが怖かったら、と言ったら世間の人々はアホかと思うだろう。だが冷静に考えてみればそれと大差のない言い訳なのである。それよりもなによりも、私は蚊を殺すときに、なんの考えも、なんの感情も持たずにただ反射的に殺虫剤スプレーを噴霧したことを思い出した。なんと恐ろしいことだろう。これがもともと私の中にあった残酷性の正体なのである。私がもしも戦争に巻き込まれるようなことがあって兵士となり戦場に赴いたとしたら、こんな感じでなんの考えも、なんの感情も持たずにただ反射的に銃を敵に向けて撃ち殺してしまうのだろうか。

死体の始末に困った。
私は事務長を呼んでどうしたらいいか相談した。この期に及んで恥ずかしい話だが、なんとか今回の一件をもみ消すことはできないかと考えたのである。
事務長は「その辺に捨てておけばアリがいっぱいいますから持っていきますよ、きっと」などと、こともなげに言った。
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事務長の言うとおり、すぐにアリが数匹やってきて、死体を吟味し始めた。おそらくすぐに本部に伝令がいき、やがてたくさんのアリが群がってきて運んでいくことになるだろう。
私は事務長の言葉を最初に聞いたとき、なんて冷たい奴なんだ、と思った。自分の犯してしまった罪を悔い、冥福を祈りながら地中に埋めて弔ってやることがせめてもの救いではないか、始めはそう思ったからである。だがよく考えてみれば、これでアリの役に立つのだから、むしろこの方が良かったのだ。
そう思い直してふとわきに目をやると、大きなアリの巣穴があった。
頑張れアリたち、みんなで力を合わせて大きなハチを運べ。
私は心の中で一生懸命そう叫びながらしばらく観察していたのだが、脳の別の部分が、今この穴を踏み潰して塞いでやったらどれぐらいで復旧するかな、いや待てよ、この穴から……。
恐ろしくて書けない。脳の別の部分で想像するだけなら罪にならないのだろうか。私は自分が信じられなくなってきた。私はサイコパスではないのか。