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自己犠牲

亀山郁夫先生がロシアの芸術を語るときによく「二枚舌」という言葉を使う。権力に媚びているように見せかけながら、けっして権力には屈服しない芸術をいう。
ここ何年か宮沢賢治の「自己犠牲」について考えてきた。自分の命を捨てることで妹が幸せになるのなら、賢治は惜しまず命を捨てたことだろう。誰しも個々の心中には自己犠牲の精神というものが内在するであろうし、私にはそれを惜しみなく実践できる自分でありたいという願望が確かにある。だが、迫りくる軍国主義の到来を前に、賢治は「より大きなもののために惜しみなく自分を犠牲にすることの恐ろしさ」も同時に予感していたのではないか、というのは考え過ぎだろうか。
カムパネルラはザネリのために惜しみなく命を捨てたのだろうか。ならば汽車の中でのカムパネルラはもっと幸せそうでもいいのにと思う。「みんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」というジョバンニのセリフは、子どものころから頭に焼きついて離れない言葉だ。だが今冷静に考えてみると、カムパネルラの死よりも、早く母親の元に牛乳を届け父の帰りが近いことを知らせたいジョバンニで物語は終わるのだ。単に自己犠牲が賛美されているとは到底思えず、最近の私はこれも「二枚舌」なのではなかろうかと勘繰ってしまうようになった。
自己犠牲を超えた本当の幸いがある。その本当の幸いとは何か。結局賢治は自らの永遠のテーマに答えを見つけることができず、あるいは答えなどないことを悟ってこの世を去ったのではないだろうか。