私は文章を書くのは得意な方ではないのですが、そういうお前が一人前の口をきくなとしかられそうではありますが、良しにしろ悪しにしろ、その文体の特徴というようなものはあるかな、などと、今日は思ってみることにして書きますが、今は無理やりそう思って書いているので、今日はなおさらそういうふうになっておるのですが、一文が長くて、やたら読点が多い、というのは、その特徴のひとつといえるのではないでしょうか。この傾向は、特に一人称に「先生」を使ったときに顕著になります。
人間、頭の中は混沌としているものであります。ものすごく頭がよくてクリアカットな文章を書く人というのはたくさんいるのだけれども、ではそういう人は頭の中までクリアカットなのかというと、そうではなくて、細かい枝葉末節なところではやはり混沌としているのであり、ただその思考の取捨選択能力に優れているだけに違いないのであります、と、例えば今のように「違いないのであります」と書いてしまったところで、私のような優柔不断な者は、そう断定して書いたそばから、いやそう言い切ってしまっていいものであろうか、などと、次から次へと思考が右往左往し、それをそのまま気分に任せて書き散らして、ろくに推敲もしないものだから、そのような読点で区切られた、だらだらとした長い一文に陥る傾向があるのだと思うのです。あとで読み返してじっくり推敲すればいいようなものだが、第一そのときにはすでに自分で書いた文章に飽きてしまっているし、だいたいそのような文章に後で句点をつけて文を分けてしまうのは、そのときの思考の右往左往ぶりを消し去ってしまうような気がして嫌なのです。
また、ただ一文が長いだけというならば、そのような文豪もあまたいるでしょうけれども、優秀な作家は一文が長くても、それほど読点は多くなく、それを読んでいても、ああ別に読点なんて少なかろうが割と気にならないものなのだなあ、とは思うのですが、それはその作家の作文テクニックが優れているから、という以外の、他の理由があるような気がしてならない、というのは、活字という媒体が読点の少なさをあまり苦もなくさせているのではないか、ということであり、例えばディスプレイで、ほとんど区切りのない長い一文を見るのは、私にとってはとてもつらいことで、他人の文章であっても、私は思わず読点を入れまくりたくてたまらなくなるのです。