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ウィトゲンシュタインと大澤真幸

論考2-0123
対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捉えなければならない。

私と貴方の違いを考えてみよう。私は内向的で貴方は外向的だ。私は飽きっぽいが貴方は根気強い。だが、これらの性質はウィトゲンシュタインのいう外的性質にあたる。人間としての「性格を持つ」という点では貴方も私も変わりはない。この「性格を持つ」というのが内的性質(論理形式)にあたる。オバマは黒人でマケインは白人だ。これも外的性質に過ぎない。「肌の色を持つ」という内的性質に違いはない。こうして考えていくと、私と貴方の「内的性質(論理形式)の違い」を見出すことは極めて困難であることが分かる。

論考2-0233
同じ論理形式をもつ2つの対象は、それらの外的性質を除けば、ただそれらが別物であるということによってのみ、互いに区別される。

すなわち、貴方と私の違いは、貴方と私が別物だということによってのみ区別される可能性が高い。では別物だということをどう表現すればいいだろう。野矢によれば、内的性質(論理形式)が同じであれば、「この」という指差しによってのみ両者は区別される。それは「貴方」と「私」であり、また「貴方の名前」や「私の名前」でもあろう。

最近読んだ大澤真幸の「不可能性の時代」に、まさにそのことを指していると思われる箇所があった。

名前は個体の諸性質に還元することができない余剰Xを指示している。

この場合の「名前」とは、野矢のいう「この」という指差しに相当し、諸性質とは外的性質のことだ。

コピーライターは使用価値の上ではさしたる相違のない商品の間に差異性の幻想を与えることを仕事としている。

結局は内的性質(論理形式)が同じである商品に、コピーライターは懸命に「この」という指差しを施すことで差異性を与えようとしている。だが、論理形式が同じであれば論理的にその差異を明確にすることなどできない。それは大澤のいうように幻想なのかもしれない。

繰り返すが、貴方と私の違いは、貴方が貴方であること、私が私であること、それ以外に何もないのだと思う。

論考2-025
実体は形式と内容からなる。

形式とは内的性質(論理形式)のことだろうか。そして内容とは実質、すなわち「この」という指差しにあたるのではないか。とすれば実体に外的性質は含まれない。根気がない、何をやってもダメ、存在する価値などない、そんな外的性質なんかどうでもいいことなんだ。と、やや強引で我田引水的な結論で、私は私と貴方を励ましたい。