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北の富士さんの痛快な一喝

http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20070812-OHT1T00077.htm
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070812-00000077-sph-spo

実は北の富士さんにも横綱時代同じような傷がある。1972年の名古屋場所を全休した直後、ハワイでサーフィンに興じる姿を写真に撮られ、協会から注意を受けた。今回の朝青龍と似たようなケースだが、決定的な違いは、北の富士さんはすぐに帰国して夏巡業にすべて参加、さらに翌秋場所で全勝優勝を決めたのだ。「朝青龍もすぐに帰国して巡業に出ますと謝れば良かったんだ。逆にオレのことが蒸し返されて迷惑だよ」と不祥事が発覚した直後の対応のまずさを指摘した。

北の富士さんも遊び人横綱として浮き名を流したからなあ。俺が本格的に大相撲を見出したのは、本格的というのはどういうことかというと、自分で番付の星取表を作成して4時から6時までテレビの前を一歩も動かず白黒印をつけながら幕の内全取り組みを凝視していたってことだけど、それは柏戸が引退し、大鵬がちょっと盛りを過ぎて、ちょうど北玉時代全盛の頃だった。大鵬のなんとなく強いところが嫌いで、玉の海のめちゃくちゃ強くて負けないところが嫌いで、北の富士の遊び人でころころ負けるところが嫌いだった。
北の富士のことを少し嫌いではなくなったのはあれからだった。玉の海が急死したとき、テレビカメラは車で移動中の北の富士を急遽つかまえて訃報を伝えた。北の富士は一瞬呆然とし、そしてやがて人目をはばからず大粒の涙を流して号泣した。あの涙は今でも鮮明に覚えている。なんというか、男の勝負師の熱いものを人生で初めて感じた瞬間だった。その涙を見て、幼い俺の目頭も熱くなった。
当時の俺は、その頃の国民の大多数と同様、心底貴ノ花を応援していたが、やはり忘れられないのは1972年初場所の「かばい手」事件だ。

結局、「かばい手」が認められて北の富士の勝ちとなった。このとき、大方の国民が、「先に足の裏以外がついたら負け」というルールが絶対的ではないことを知って驚いたと思う。「死に体」という言葉が世に知られようになったのもこの一番からであろう。貴ノ花ファンであった俺は、このときからずっと、北の富士に対する悶とした思いを胸の奥底にしまい続けていた。だが、貴ノ花が死んだとき、北の富士は「あの一番は私の土俵人生のすべてだ」と言った。この一言で、俺の北の富士に対するわだかまりはすべて消え去った気がした。長い年月を経て、北の富士はすっかり大人になった俺の目頭を再び熱くしてくれたのだった。
今では、元遊び人横綱の自分を省みない奔放で熱い解説が大好きである。これからも角界のご意見番として、玉の海さんや神風さんを越える名解説者となっていただきたいです。